アド・センターからアンアンへ……金子功と立川ユリ

2022年5月28日

ほんとうに、幸せそうに

立川ユリ。『an•an』(平凡出版)1979年5月5日号

『アンアン』1979年5月5日号は立川ユリを表紙に、「さよならアンアン号」を謳っている。けれど『アンアン』は今も刊行されているし、休刊になったこともない。これは80年代に向けて雑誌がリニューアルすることを表していた。実際、次の号から刊行は(月2回から)月3回に、ページ数は3分の2に減らして代わりにオールカラーになる。

そんな「さよならアンアン号」に、『アンアン』題字もデザインした堀内誠一のこんな声がある。

金子功の服をユリが着る、ほんとうに、幸せそうに着ている、その写真をなるべくデッカクのせるというのが、初期アンアンのアンアンたるところでした。(引用者略)カメラマンだって、それから詩やエッセイを組写真につける人だって、ユリが全身で言ってることに驚いたはずです。可愛い女性でいられなかったら死んじゃう、そんなハッとするところがあった。ユリの前にモデルという芸術はなかった。

『an•an』(平凡出版)同号 12ページ

『週刊平凡』のウィークリー・ファッション

1961年、セツ・モードセミナーを卒業した金子功はアド・センター(ADセンター)に入社する。企画やデザインの制作をしていた同社ではセツの先輩の花井幸子をはじめ、花井の同期である高木弓(ユミ・シャロー)や岡部幸子らも仕事をしていた。

当時のアド・センターが企画、『週刊平凡』創刊号(1959年5月14日)から約3年間展開した連載に「ウィークリーファッション」がある。立川ユリも出ていたという「ウィークリー・ファッション」は花井幸子によるとこんなページだった。

 これは日本のファッション写真の草分けね。それまでは足を揃えてニッコリポーズ、洋服がハッキリ見えなきゃいけなかったでしょ。このページだけは、もっと風俗的なとらえ方をした初めてのタイプ。背景に街をとり入れたり、服なんか全部見えなくても雰囲気を見せる、とか。時代感覚のあるファッション写真ね。これをずっと撮ってたのがタッちゃん(立木義浩)、彼もADセンターだったから。

『セツ学校と不良少年少女たち』三宅菊子(じゃこめてい出版)1985年 101ページ

同じくアド・センターにいた堀内誠一も語っている。

 以前 ファッション写真というものは 単純明快な目的写真とみられていた(略)スタイル・ブック編集者から要求されるものは 見てすぐ同じ服のつくれる写真である けれど もともとファッションとかモードとかいわれるものは 必ずしも ひとつのドレス・デザインのことを指すものではなくて 深刻ないい方をすれば ひとつの文化圏における日々の感覚の集計みたいなものだ——と我々は考えた

『ファッション年鑑’62』(アド・センター)1962年 148ページ

実際のウィークリー・ファッションの誌面を見てみよう。

1961年。『雑誌づくりの決定的瞬間 堀内誠一の仕事』木滑良久責任編集(マガジンハウス)1998年 159ページ
1961年。『雑誌づくりの決定的瞬間』 172ページ

これは実際、すごいと思う。なにせ1959年からの仕事なのだ。東京タワーが去年できた建物なのである。『平凡パンチ』も『アンアン』も出ていない、まだ既製服を買うより町のお店や家庭で服を作るのが珍しくなかった時代——そういう時代に「ファッション」ページが展開されていた。水中に潜ったり、三越のライオンに無許可で跨ったりしながら。

(引用者注:金子功の話)
「あのページねぇ、刺戟されて慄(ふる)えながら見てたよ。タッちゃんの写真で、堀内さんのレイアウト。可愛かったよね。デザイナーとしてユミさん、花井さん、岡部さん、セツの3人の名前がよく出てたし……憧れて見てたんだよォ」

『セツ学校と不良少年少女たち』 110ページ

アド・センター

そもそも金子が入社したきっかけも、この「ウィークリー・ファッション」の忙しさがひとつ影響していた。

(引用者注:高木弓の話)
撮影してるそばで次の週に撮るセーターを必死になって編んだり。忙しかったけど楽しくて楽しくて。
あんまり大変で、もう一人ほしいということになって、私たち金子さん、金子さんて言ったのよ。彼の絵が大好きだったから。ADセンターに金子さんが初めてきた日、3階の窓から見ていたら、門を入って道の端っこを通って心細そうに歩いてくるの。私たちダーッと階段を駆け降りて迎えに出ました。

『セツ学校と不良少年少女たち』 101ページ

初出社の日には、パリでピエール・カルダンのモデルも務めたトップモデル、松本弘子の撮影をしているところにも行き合わせたという。こうして金子の社会人生活は始まった。そして「彼女」との出会いがある。

立川ユリ

『an•an』(平凡出版)1970年10月20日号 26ページ

立川ユリはドイツ、クルムバハ出身。8歳の時に横浜にやってくる。伝統あるインターナショナルスクールのサンモールに通い、近所にたまたまファッションモデルのクラブの仕事をしていた人がいた関係で、妹のマリとともにモデルになった。

ユリの初仕事は『週刊女性』。最初ユリはコシノジュンコに服を作ってもらっていたが、妹のマリは金子功——「金子さん」が担当だった。当時は撮影の時に服を作るのが当たり前で、作った服をモデルやデザイナーがもらったり買ったりすることも多かったらしい。で、「金子さん」の服はコシノさんより安かった。洋服が1枚でも多くほしかったユリは、自分も「金子さん」に作ってもらうことにする。こうして二人は親しくなった。金子もユリも当時は売れっ子でなかったから、「ガンバロウね」と励ましあったりもしたという。

ある日、仮縫いをしながら、金子さんがきいた。——いつも、どこで遊んでるの?
「イタリアン・ガーデン。こんどこない?」
次の土曜日、彼が友だちといっしょにやってきた。なぜかユリはつまらなかった。金子さんがひとりで遊びに来ればいいのに、と思った。
次のときも、金子さんは友だちと来た。そして3回めのとき——縫いあがった洋服を届けにきた彼は、ひとりだった。
次の週から、ユリは金子さんといっしょに暮らすようになった。

『an•an』(平凡出版)1970年10月20日号 27ページ

『アンアン』の日々

金子と一緒にアド・センターにいた堀内誠一は1969年、一足先に退職し、新女性誌創刊の準備にとりかかる。『平凡パンチ女性版』(『平凡パンチ』1969年12月24日臨時増刊号と1970年2月20日同号)が「新女性誌」のテスト版となった。「ウィークリー・ファッション」で「ひとつの文化圏における日々の感覚の集計」を表現しようとした堀内が、雑誌全体を通してトータルにデザインしようとした「新女性誌」は、もちろんのちの『アンアン』となる。

1970年の『平凡パンチ女性版』には、すでに、金子とユリのページがある。

『雑誌づくりの決定的瞬間』 238ページ

長く一緒に働いてきた金子とユリは、堀内にとっても新しいファッションやビジュアルを考えるとき、なくてはならない存在だったのだろう。二人は『アンアン』でも引き続き働き、初期『アンアン』を支え、飾る。

ところで、当時の金子の一日が『アンアン』1971年4月5日号に載っている。

『an•an』(平凡出版)1971年4月5日号 98、99ページ

どうもノンキな感じもするけれど、別の機会には「既製服がそんなになかった時代でしたから、自分で服を作って忙しかった」と語っているのでまあユーモアだろう。でも忙しい仕事がほんとうに楽しかった。

(引用者注:カメラマンの立木三朗の話)
とにかく、金子さんて何も言わない人なんだ。最終的に「可愛い写真」ができれば、服の特徴なんてわからなくてもいいわけ。ユリも、金子さんの服が本当に好きだから、生き生きとしてるし。(略)金子さんはそんなユリを黙ってニコニコ見ていたよ。

『an•an』(平凡出版)1983年9月16日号 86ページ

『アンアン』で二人のページや洋服は大人気だったものの、アド・センターの経営は思わしくなかったらしく、1972年金子も社を去り、同年会社も解散している。雑誌での仕事もこの頃一段落して、金子は「やる仕事がなく」なっていた。そんなとき、文化の先輩ですでに「ニコル」を立ち上げていた松田光弘から誘いがある。春に二人でショーを行い、1972年にはニコルから「ピンクハウス」が誕生する。

ピンクハウスのデビュー作。『an•an』(平凡出版)1972年9月5日号 12、13ページ

『アンアン』1972年9月5日号には最初のブティックについてこんな風に書かれている。

(略)小さなブチック開くことになりました。ニコルのすじ向かいで。金子さん、今までブチックもったことなかったのです。いよいよ自分のお店を開いて、店員サンは愛妻、立川ユリさんなのです。
1Fがセーター、Gパン、ブラウスなどの既製服。2Fはドレスの予定。

『an•an』(平凡出版)同号 13ページ

同時期の作品。『an•an』(平凡出版)1983年9月16日号 88ページ

金子はこのころ、立川ユリや『アンアン』編集部の人たちと「可愛い」をしきりに話しながら、仕事をしていた。

(引用者注:ヘアメークアーティストの松村真佐子の話)
金子さんと、いつも話していたのは「可愛い仕事がしたいね」ということ。

『an•an』(平凡出版)1983年9月16日号 87ページ

はじめはユリのために、やがて少女たちのために——。金子の「可愛い仕事」はこのとき名前を得た。少女の夢がつまった家、ピンクハウス。

写真:斉藤亢。『金子功のワンピース絵本』金子功(文化出版局)1984年 7ページ