ふたり・は・カラス族・です・か

2022年3月1日

こんな私に彼ができるかなあ

 皆さん、私、いま、とても悲しいのです。相談にのって下さい。
というのは、私は一般ウケしないということなのです。要するに、私はカラス族のかたわれの女なんです。
ギャルソンの服がすきで、根暗ではないけれど、初めての男性とは、パーッと気軽には話もできないし、顔もにこやかではないし、はっきりいって、カワイクないんです。
(略)
いま、夏で、ちまたは、素敵な少年と少女があふれているのに、ひとりきり。私に彼ができるでしょうか。(京都・さとこ)

『アンアン』1983年9月16日号の投稿欄(83ページ)に、こんな声が載っている。

編集部からは「★林真理子さんの本、読むべし。」と返されている。さとこさんが林真理子の本を読んで、「彼」ができたのか、そのとき「ギャルソン」を着ていたのかどうか、分からない。けれど当時すでに、カラス族という言葉が浸透していたこと、一般ウケしないものとして認識されていたこと、は分かる。

今ではほとんど聞くこともなくなった、「カラス族」、それはどんなものだったのだろうか。

「カラス族」といえば……

2022年3月1日朝9時、グーグルで「カラス族」と画像検索すると最初に出てくるのは、この二人である。

東洋経済オンラインの記事に同じ写真があり、それが登場

書籍『ストリートファッション1980-2020 定点観測40年の記録』裏表紙でも「カラス族」としてこの写真は使われている。なるほど、彼女たちが「カラス族」だったんだ、と思う。

ストリートファッション 1980-2020 定点観測40年の記録|書籍|PARCO出版

PARCO出版の「ストリートファッション 1980-2020 定点観測40年の記…
publishing.parco.jp

が——そうなのだろうか。

二人はカラス族?

この写真の初出は、『月刊アクロス』スタッフが1980年8月9日に始め、1980年9月号から同誌で連載された「定点観測」のページである。『東京の若者 渋谷・新宿・原宿「定点観測」の全記録』(アクロスSS選書シリーズNo.12)(月刊アクロス編集室 パルコ出版局 1989年)によれば、「定点観測」は

観測日は毎月第1土曜日(略)を基本とし、(略)場所(定点)は渋谷がパルコパートI前、新宿は紀伊國屋書店前、原宿は表参道千疋屋前

『東京の若者』4ページ

で行われ、写真撮影のほかに「駅のほうから来て定点側の歩道を通り過ぎる通行人」「中でも女性スカート着用者」「その月のテーマアイテム着用者」のカウントなども行う企画だった。また1982年3月からはインタビューも加えられる。このページで1981年9月5日「観測」されたのが、あの二人だったのである。

参考地図

1981年9月5日(土)

その9月5日のページを『東京の若者』で読むと、こう書いてある。

『東京の若者』41ページ

81年秋に向けてパンツファッション台頭の兆し。これはパルコのマヌカンのテイパードパンツ姿。大人の黒です(渋谷)

「大人の黒」?

この週のカウントアイテムは「女性ニットセーター、女性パンタロン、女性ニットセーター+パンタロン」。「ズームアップ」というサブテーマのような括りも「おもしろパンツ、ペットを連れた人」で、「カラス族」や「黒」というテーマは実は見当たらない。

寸評も「この月は久し振りにJJガールのファッションの行方を追っている。サマーニットとパンタロンのコーディネイトである。」と始まり、途中の「パンツのバラエティ化が進」むという記述が強いて言えば「テイパードパンツ姿」と関連しそうだが、実質的には二人の写真や格好には触れずに終わる。彼女たちは「大人の黒」を着たおしゃれなマヌカン(ショップ店員)ではあっても、「カラス族」として注目されていたわけではなかった。

この週のテーマと思われる「JJガール」 『東京の若者』41ページ

「マヌカン」二人の着こなす服はのちのカラス族と近い。DCブランドの黒い服、とまとめれば同じと言ってもいい。けれど安室奈美恵がアムラーではないように、やはり二人を「カラス族」とするのは難しく思える。彼女たちや彼女たちが着こなすブランドのイメージに憧れて、「カラス族」というフォロワーが生まれたとすれば、二人はむしろ「カラス」ではないか。

二人はカラス族

そうなると、「定点観測」が「カラス」を見つけるのはいつなのだろうか。『東京の若者』によれば、1982年10月2日がそれである。

『東京の若者』69ページから構成

この週は「カウントアイテム」も「男女ブラック、女性ニューパンツ」と「カラス族」らしいものとなっており、寸評もまさに「カラス族」中心に書かれている。

■黒を取入れたファション(原文ママ)、原宿で10%
82年秋は、コム・デ・ギャルソンに代表されるデザイナーズブランドが黒の魔力を活かして一種のカリスマ性を築き上げつつあった。全身黒づくめの、いわゆるカラス族が話題になったのもこの頃である。ファッションの中に黒を使った人をカウントしたところ、渋谷5.6%、新宿5.6%、原宿10.3%と原宿が最高。全身黒は原宿以外はほとんど見られず、スカート、パンツ、セーターなど1アイテムだけ黒という人がほとんどだった。また、81年秋に吹き荒れた女性の変形パンツ旋風は82年後半には次第に淘汰されて奇抜な形のものは少なくなり、代わりに七〜九分丈で裾がスリムのペダルプッシャー(自転車のペダルを踏む時邪魔にならないパンツ)風のパンツが台頭した。

『東京の若者』68ページ

二人の写真にも「ブラックアウト派女性2人。おかっぱヘアと目付きもそっくり(上、渋谷 下、原宿)」(69ページ)(注・上が当ブログ左、下が当ブログ右)というキャプションが寄せられている。川久保玲と山本耀司がパリ・コレクションで「黒の衝撃」と呼ばれるコレクションを発表したのも1982年であり、ブランドが「黒の魔力」を当時発信したことも間違いない。

そう思うと、1981年の秋冬に黒い服や「カラス」が出現、1982年にはコレクションでも評判となったことで街にも「カラス族」と言えるくらい普及していった——そんな順番があったのかもしれない。

当時のヨウジヤマモト。
『All About Yohji Yamamoto』田口淑子編著(文化出版局)2014年 166ページ

やはり「カラス族」は1982年、秋風にコートをなびかせてやってきたと思うのである。

「パルコ」の「マヌカン」で「カラス族」

冒頭紹介した『ストリートファッション』は同じ『月刊アクロス』の定点観測を基にした、言うなれば『東京の若者』の続きのような本だが、30年が過ぎた時、1982年10月2日のカラス族の二人ではなく1981年9月5日のカラス二人で「カラス族」を象徴させているのは興味深い。これは『ストリートファッション』の以下の記述にヒントがある。

 当時のストリートは、サーフィンやテニス、ゴルフなどを楽しむ大学生のスポーツ系カジュアルファッションによるライトブルーやパステルカラーなど明るい色彩が主流。そこに突如として登場した全身黒ずくめのファッションは、ストイックで孤高な雰囲気を持つと同時に、常識を拒否する反社会的なイメージがあり、「カラス族」と呼ばれるようになった。(略)
「カラス族」の核となった人々の多くはDCショップのスタッフに。アートのような商品群と空間に囲まれて働く彼・彼女らは、そのブランドの着こなしを示すモデルでもある「ハウスマヌカン」と呼ばれ憧れの職業として注目された。

『ストリートファッション』20、21ページ

『ストリートファッション』編者は「DC」「カラス族」「ハウスマヌカン」といった80年代DCブランドブーム前半を象徴する物事を歴史とする時、「カラス族」→「ハウスマヌカン」という流れを選んだ。ゆえに、「パルコのマヌカン」だった二人に「カラス族」という言葉をも象徴させたのだろう。実際『ストリートファッション』では黒い二人の写真にハウスマヌカン風カラス族というキャプションが付されている。

彼女たちは実際「パルコのマヌカン」だったにも関わらず、「風」なのだ。それは、福岡の少女・蒲池法子が松田聖子として雑誌の表紙を飾るように、1981年9月5日渋谷を歩いていたあの二人と離れたところで、黒く並ぶ二人が一枚の(キーワードとしての)画像になったことを示している。

カラス〈族〉

さとこさんは「とても悲しい」「いま」だけを83年、残して去った。「カラス族」をさとこさんが象徴することはないだろう。

けれど颯爽と渋谷を駆け抜けた81年の二人より、不安そうにカメラを見つめ返す82年の二人や「一般ウケ」に悩むさとこさんのほうがやっぱり「カラス族」らしい、と思う。それは(お店の指定だったとしても)JJガールの横で黒い服を選んだカラスたちではなく、すでに「族」の中にいた「カラス族」たちには、そんな気持ちがふさわしいと思うからにほかならない。