一つの夢が叶ったら次の夢、次の夢。寛斎。

2021年3月24日

KANSAI IN LONDON

——1971年5月。ロンドン・キングスロードのセレクトショップ「グレート・ギア・トレーディングカンパニー」は、午後6時営業を終えた。

三畳間の下宿で

遡って1966年、深夜。山本寛斎が『装苑』の写真を表紙から裏表紙まで模写している。手元には長沢節らによる『スタイル画の世界』。昼間はコシノジュンコ、後に細野久のもとでお針子(デザイナーが作った服を縫う縫製担当者)の修行に励み、帰宅してから二三時間続けるこの作業が、彼のデザイナーへの道だった。

本当にこれでいいんだろうか。こんなことをしていてデザイナーになれるんだろうか。

『熱き心』山本寛斎(PHP研究所)2008年 92ページ

熱き心 | 山本寛斎著 | 書籍 | PHP研究所

「人を驚かせたい」「他人と同じことはしない」を信条としてきたクリエイターの自己表…
www.php.co.jp

そんな不安を抱きながら。

日大文理学部英文科の学生だった寛斎は、ファッションデザイナーになると決めた21歳のとき退学届を出した。当時もデザイナーになるにはファッションの専門学校に通うのが通常コースだったが、そんなお金はない。そこで選んだのがお針子の修行と独学を組み合わせた、稼ぎながら勉強もできる道だった。頭には『装苑』で見た、国鉄で働きながら1963年装苑賞を受賞した川上繁三郎の存在、そして中村乃武夫の作った美しいデザイン「ペリカン」があった。

中村乃武夫「ペリカン」『装苑』(文化出版局)1974年7月号(再録) 138ページ

やがて努力が実る。デザイン画が候補に選ばれ出したのだ。そこからは人台(トルソー)にシーティング(シーツなどに使われる生地。安価なので仮縫いに使用される)を巻きつけ、鋏を直接入れながら実際の服作りに挑んでいったという。

当時の作品(左から2つ目)『装苑』(文化出版局)1967年4月号 170、171ページ

そして1967年、寛斎はついに装苑賞を受賞する。デザイナーになると決意してから2年ほど。すごいスピードだった。

一つ、夢がかなった。

第21回装苑賞受賞。『装苑』(文化出版局)1967年4月号 166ページ

——グレート・ギア・トレーディング・カンパニーの店内が慌ただしく片付けられる。棚が隅に寄せられる。白い布が覆う。ソニーの技術者たちが音響や照明のセッティングを始める——

これだ!

装苑賞受賞後、寛斎は独自のスタイルを求めて模索を続けていた。あるとき、本屋で立ち読みした本にニューヨーク・グリニッチヴィレッジで暮らすヒッピーたちの写真を見つける。

あっ、僕の作る洋服はこれだ!

『装苑』(文化出版局)1969年6月号 175ページ

1960年代末、ファッションの世界でもヒッピーやフォークロア、サイケデリックに注目が集まっていた。寛斎の服がここに共鳴した。

寛斎のフォークロアスタイル。『装苑』(文化出版局)1970年11月号 31ページ

寛斎自身も奇抜な格好に身を包むようになる。アフロヘアに上下蛇革の服と靴がトレードマークだった。

1970年『LIFE』に掲載された寛斎。『プリンツ21』(プリンツ21)2003年秋号 74ページ

そして1968年、この格好が彼の人生にも影響を及ぼす。

 ある時、デパートの重役から、「君は面白いかっこうをしているね。今度うちの渋谷店に君の作品を置いてみないか」と声をかけられた。願ってもないチャンスである。さっそく数着の服を作って納入したところ、なんと一週間で完売してしまったのだ。

『熱き心』108ページ

このデパートは西武百貨店(渋谷店のコーナー「アバンギャルド・カプセル」)だったが、ここを皮切りに寛斎のビジネスは急成長を始める。原宿にアトリエを構え、1970年には年商1億円にまで達していた。この資金力が海外への挑戦に現実味を与えたことは間違いない。

また夢が、かなった。

「日本人」として

一連の〈カンサイ・ルック〉——アラベスク模様のパンタロン、ツギハギ・ルックのマキシコート、手製の絞り染めのシャツなどが、若者たちの心をガッチリととらえて、はなさない。

『宣伝会議』(宣伝会議)1970年11月号 12ページ

当時の記事からは「カンサイ」の服が洋風のヒッピー、フォークロアスタイルだったとわかる。しかし、寛斎自身は次第に「日本人」というキーワードを意識するようになっていた。アフロヘアも坊主頭に変えている。

姿を変えて。『宣伝会議』同号 9ページ

 当時の日本のファッション界というのは、まだまだヨーロッパ崇拝主義だった。「カルダン先生、サンローラン先生に比べて、日本のデザイナーはね〜……」などという感じ。
私は、それに反発を覚えていた。日本人として「どうじゃあ!」と世界の舞台で堂々と勝負したかった。

『熱き心』205ページ

 そのためにはヨーロッパにはないものを見せるしかない。当時は映画俳優のアラン・ドロンが人気だったが、私はどうやったってアラン・ドロンにはなれない。金髪や茶髪に染めたところで、本物に勝てるわけがないのである。黒髪でなきゃダメなんだ。つまり、日本人であることを強烈に打ち出していかなければ……。

『熱き心』205、206ページ

実際には黒髪というか坊主だったのだが(?)、世界に挑戦しようと思ったとき、寛斎は「日本人」へと意識を強めていった。歌舞伎との出会いもこのころだ。

 ショックだった。日本人がこれほどの色彩美を作り得たとは! その大胆でグラフィックな色合わせ、演出の面白さ。そこに脈々と流れる日本人の激しい血は、まさに私自身の血と同じだった。目からウロコとはこのことか。これを武器にロンドンで勝負してやろうと思った。
すぐに歌舞伎の「引抜き」「打っ返り」の技法を応用して服を見せるというアイディアが浮かんだ。

『熱き心』206ページ

  • 「引抜き」(ひきぬき)……衣装に仕掛けた糸を引き抜いて衣装替えをする手法。
  • 「打っ返り」(ぶっかえり)……止め糸を抜いて上の衣装を腰から下に垂らし一瞬で服の色を変化させる手法。

こうした歌舞伎の技法の援用は、今見れば、アジアらしさを西洋受けに利用したと捉えられてしまうかもしれない。ただあくまで寛斎はこう語っている。

日本風が外国に受けるから採用するんじゃない。ぼくの感覚が、日本的なドロドロしたものにすごく反応するからなんだ

『週刊ポスト』(小学館)1971年4月30日号 5ページ

「日本風」の表現だけなら、それは寛斎が憧れた中村乃武夫が日本人として初めてパリでコレクションを開いた際にもやっている。あくまでこの記事ではこの方向を突き詰めて、ロンドンで衝撃を与えるまでになった寛斎の表現、その物凄さに注目したい。

中村乃武夫のパリでの作品。『装苑』(文化出版局)1974年7月号 134ページ

そもそも寛斎は海外進出で初めて「日本風」を推し出したわけではなく、1970年の日本のコレクションでもこうしたデザインを発表している。彼がやろうとしていたのは、ただ「アジアらしさで西洋人に受ける」だけではない、寛斎の思想と当時のカルチャーとが密接に関わる1971年の「新しい」表現だったはずだ。

『プリンツ21』(プリンツ21)2003年秋号 52ページ

ついにロンドンへ

1971年、山本寛斎は日米ダブルのモデル、マリー・ヘルビン(偶然ロンドンに来ていた同じくダブルのモデル、杉本エマも急遽ショーには参加)とヘアメイクの川辺サチコ、彼女の片腕である鈴木輝雄、スタイリストの高橋靖子らとロンドンの街に立つ。高橋靖子はモデルのオーディションや会場の選定にも関わっているが、面白いのは彼女がソニーの盛田昭夫と空港で偶然出会ったときのエピソードだ。

 私は迷うことなく紳士に近づいて、「ソニーの盛田さんでいらっしゃいますか?」と話しかけた。
「そうですよ」という答えを聞くと、「私はロンドンで、ソニーの電話番号を調べたんですけど、電話帳にありませんでした」と言った。
「あなたはロンドン市内で調べましたね。ソニーは郊外のサセックスというところにあるんですよ」と教えてくれた。
それから5分くらい話をして、盛田さんは「じゃ、そのショーの音響に協力するよう、部下に言っておきますよ」と約束してくれた。

 『表参道のヤッコさん』高橋靖子(アスペクト)2006年 173ページ

 盛田さんはきちんと約束を守ってくださり、ショーの三日前から3人の技術者を送り込んでくれた。技術者たちのギャランティと、会場の音響設備もすべて無償だった。

『表参道のヤッコさん』174ページ

海外へ行く日本人が少なかった時代の背景や、高橋靖子の人間的な魅力もあるのだろうけれど、すごい話だ。そして、このときのソニーはもちろん大会社ではあったけれど、前身の東京通信工業創業から25年の、今でいえば楽天やゾゾタウンと似たような、まだまだ動いている企業だったんだな、とも感じてしまう。しかしすごい。

表参道のヤッコさん :高橋 靖子|河出書房新社

表参道のヤッコさん 新しいもの、知らない空気に触れたい――普通の少女が、デヴィッ…
www.kawade.co.jp
ショーの数日前(椎根和撮影)。高橋、寛斎、鈴木。『表参道のヤッコさん』172ページ

——グレート・ギア・トレーディング・カンパニーの店内に、寛斎がいる。27歳の彼は、幕開けを待つ。ショーが始まったのは、午後9時くらいだった——

KANSAI IN LONDON

1971年5月、「KANSAI IN LONDON」が始まった。

 ベン、ベン、ベベベーン……と太棹の三味線の音が会場に鳴り響く。静まり返った観客の目の前に二人のモデルがステージに登場。羽織っていた水色の上着をパッとはねのけると、服が裏返って中から花びらが飛び散るような原色のドレスがあらわれた。次々と服をはぎとっていくと、赤、白、黒と移り変わる色彩の乱舞である。

『熱き心』206ページ

『表参道のヤッコさん』178ページ

大きく重たい、伝統的な手甲脚絆(てっこうきゃはん)の構造や歌舞伎の手法が取り入れられ、構造も複雑な衣装はロンドンの人々を驚かせた。照明や音楽のなか、興奮のあまり発せられるため息がショーの間中響き、寛斎は黒子の衣装でステージ中央から檄を飛ばした。ショーはドラマティックに走り過ぎた。

人びとは立ち上がり、拍手は30分経っても鳴り止まなかった。
寛斎さんは、手を振り、走り、観客と握手をして、全身で応えていた。

『表参道のヤッコさん』177ページ

ショーは奇跡的な大成功を収め、ロンドンでも寛斎の服が売られるようになる。顧客にはエルトン・ジョンや後に衣装に関わることになるデヴィッド・ボウイがいた。これも、寛斎の服が「日本趣味」を超えた時代の先端を行く表現だったことの裏付けだろう。

また大きな夢が、かなった。

三畳間から装苑賞へ。装苑賞からトップ・デザイナーへ。そしてロンドンへ。寛斎は夢を追い続けた。

一つの夢が叶ったら、次の夢、次の夢……。私は一ヵ所にとどまっていられない性格なのだ。

『熱き心』177ページ

それはロンドン以降も、パリ・コレクションへの挑戦と挫折、「KANSAI SUPER SHOW」での復活、近年の「日本元気プロジェクト」まで続いていく。

1971年。まだ無名の日本人だった彼がロンドンで行った、日本人として初めてのファッションショーは、大きな拍手と感激に迎えられていた。

マリーに仮縫いをする寛斎。『週刊ポスト』(小学館)1971年4月30日号 3ページ