世界の基本的最先端は「東京」に——ピテカントロプスの夜

2022年2月1日
『宝島』(JICC出版局)1984年1月号

基本的最先端

『宝島』(1984年1月号)に「Y、M、O VS 栗本慎一郎」と題する「緊急特別対談・後編」(構成協力:野々村文宏)が掲載されている。

栗本 (略)ただ、こうして今、皆さんとお話ししているうちに、先おとといまで行っていた東ヨーロッパの各都市と、それからニューヨーク、そしてこの東京とを比べてみるに、結論から言って、世界の基本的最先端は「東京」なんじゃないかという意識を持ちましたね。
高橋 そりゃあ、間違いなくそうです。
栗本 そうはっきり言われると、「俺は今頃になって気がついたのか」と、暗澹たる気になる(笑)。
坂本 ぼくたちなんか、それを5年前から言ってたもんねー。
栗本 (無言で泣く)

『宝島』同号 68ページ

1984年、東京は世界の基本的最先端だった。同年6月18日、ピテカントロプス・エレクトスという奇妙な場所で、それは証明される。

ピテカン

ロゴマーク。『丘の上のパンク』から

ファッションブランド・バッソー(BASSO)の社長だった石原智一が、「まともなナイト・クラビングができる」場所を求めてプロデューサー桑原茂一と作り出した日本初のナイト・クラブ、それが「ピテカン」だった。その姿が東京都渋谷区原宿にあったのは、1982年12月から1984年7月までのごく短い期間に過ぎない。

なお、ピテカンの開業期間詳細については、ばるぼらさんのnoteに詳細記事がある。

ピテカンの開店日はいつか|bxjp

80年代に原宿にあった「ピテカントロプスエレクトス」というクラブ、というかスペー…
note.com

おすすめです。さて話を戻して……

 いまや原宿の”顔”になりつつあるピテカン。その実体はナイトクラブ兼レストラン兼ライブハウス兼ギャラリーと、全然しぼり切れない。とにかく原宿の、というより東京のファッション最前線といっていいお店だ。当然、客もそれ風で、思わず”ナウい!”といいたくなる人達が、ナイトクラビングを楽しみにやってくる。とりあえず1000円払って入場すると、中には色々なスペースがミックスされており、どこまでがギャラリーで、どこまでがバーか、などという区別はないも同然。まさにスペース利用の見本のようなお店なのです。

『ニュー・スタイル・パック PiNHEAD FOR SUPER MODERN BOYS&GIRLS』(CBS・ソニー出版)1983年 77ページ

(写真右)内部ではファッション・ショーも行われている。服を紹介しているヒトは、メロンのリーダー、トシなのだ。
(写真左上)週に何度か、ライヴがある。メロン、東京ブラボーなどの新感覚バンドのほかに、外タレのステージもある。
(写真左下)基本的には地下の店なので、地上に出ているのはこの部分だけ。ここからラセン階段を下ってゆく。店内は、さらに2階に分かれていて、かなり複雑。

『ニュー・スタイル・パック』写真キャプション。同ページ

文中のトシは、プラスチックスでも活動していた中西俊夫のこと。東京ブラボーは高木完、ブラボー小松、坂本ミツワの3人が結成していたバンドである。また記事には出ていないが、藤原ヒロシがDJ、DUB MASTER Xがアシスタントミキサーを務めるなどピテカンはまさに日本のヒップホップ胎動の場所でもあった。

『an•an』(平凡出版)1983年9月16日号 29ページ

また桑原茂一を軸に宮沢章夫、シティボーイズのメンバー、中村有志、いとうせいこう、松本小雪で結成されたユニット・ドラマンスの公演が開かれたり、キース・ヘイリングの個展が開かれたりバスキアの絵が飾られたりと当時のアートとも繋がりあっていた。そんな先端の場所、「東京一、日本一、おしゃれ」なピテカンの歴史の中でも記念すべき一夜が、1984年6月18日なのである。

1984年6月18日(月)

パイク。『宝島』(JICC出版局)1984年8月号巻頭グラビア

この日、ピテカンでは現代美術家ナム・ジュン・パイクの著書『タイム・コラージュ』(ISSHI PRESS 1984年)の出版記念パーティが開かれ、合わせてパフォーマンスも行われたのだが、すごいのはその参加メンバーだった。

  • ナム・ジュン・パイク……韓国生まれの米国人現代美術家。いくつものモニターを組み合わせた作品で知られる。ビデオアートの先駆者かつ、代表的存在。同年5月15日から7月17日まで港区青山のギャルリーワタリでは「ヨーゼフ・ボイス&ナム・ジュン・パイク展」が開かれており、この美術展をたまたま坂本が見に来たことがパフォーマンスへの出演につながった。当日は舞台上でセーターをまわしに見立てて腰に巻き、ピアノと相撲をとるような「格闘」を繰り広げたという。
  • 坂本龍一……YMOのメンバーであり、映画音楽でも知られるミュージシャン。パイクについては70年代に捧げる歌を作曲するなど、出会い以前から感銘を受けていたようである。当日はおもちゃのラッパやカシオトーンなどを演奏した。
  • 細野晴臣……YMO、またはっぴいえんどのメンバーでもあるミュージシャン。当日はミキシングを務めた——が、『宝島』(1984年8月号)では「細野は、ミキサー席でじっと動かず。」と書かれている。『美学、考』(ワタリウム美術館)(第9号 52ページ)によれば「ステージは混乱し、とっちらか」る中、「ぼくはこの混とんがアートなんだろうと思った」と述べているので、役割はミキシングだったが即興に任せた、のかもしれない。
  • 立花ハジメ……グラフィックデザイナーとして活躍するほか、プラスチックスのギタリスト、ソロ作品などのミュージシャン活動も行う。当日はステージで鉄筋のオブジェを制作していた。
  • 高橋悠治……現代音楽での活躍で知られる作曲家、ピアニスト。坂本龍一とは共著『長電話』の出版や、坂本の楽曲の編曲を高橋が務めるなど交流が深い。当日は「フリーに弾きまく」っていた。
  • 高橋鮎生……高橋悠治の実子。民族楽器などを取り入れたジャンルフリーな音楽表現を行う。当日は『宝島』のレポートには記載がないが、おそらくギター等の演奏を行っていたのではないか。
  • 三上晴子……鉄屑や基板が広がるインスタレーションで著名。高橋鮎生と同じく『宝島』8月号のレポートには記載がないが、中森明夫の『東京トンガリキッズ』「世界の終わる日、僕たちは……。」に「パイクを迎えてのセッションのバックで、立花ハジメとともに鉄を鳴らしていた」とあるので、「鉄筋のオブジェ」になんらかのかたちで関わっていたと推測される。

以上が舞台に上がったメンバーだ。ちなみに舞台は十字架の形に組まれたビデオ・モニターをバックに組まれ、司会は、

  • 秋山邦晴……エリック・サティなど現代音楽の評論、紹介で知られる。詩人の瀧口修造や作曲家武満徹らの参加したグループ「実験工房」の一員でもあった。

が務めている。

左からパイク、秋山、坂本、高橋悠治。『宝島』1984年8月号

観客も錚々たるメンバーで、

  • 堤夫妻……西武鉄道グループオーナー義明とその妻、由利。西武百貨店など流通グループ(セゾングループ)を経営した兄の清二に対し義明は鉄道、ライオンズ、プリンスホテルなど鉄道グループ(西武グループ)の経営に勤めた。
  • ヤニス・クセナキス……ルーマニア生まれのギリシャ系フランス人。現代音楽や電子音楽などの作曲のほか、建築家としても活動している。高橋悠治との関係が深かった。
  • 浅田彰……構造主義、ポスト構造主義の解説書『構造と力』(1983年9月。26歳!)でニュー・アカデミズムの潮流を作り、その旗手となった。当時京大助手。1984年3月『逃走論』で「パラノ・スキゾ」を流行語にする。
  • 中沢新一……チベット密教と現代思想を扱った『チベットのモーツァルト』(1983年11月)で浅田とともにニュー・アカデミズムを代表することになる。当時東外大助手。

ほかにも「有名ミュージシャン、イラストレーター、デザイナーの顔がずらり」だった。また坂本龍一は、同日行われたローリー・アンダーソンの公演後にピテカンへ駆けつけている。1984年6月18日、東京はまさに世界の、最先端だった。

  • ローリー・アンダーソン……パフォーマンス・アートで知られる米国人前衛芸術家。パイクが1984年元日に世界衛生中継した番組『グッド・モーニング ミスター・オーウェル』にも出演。ローリーはここでピーター・ガブリエルと新曲「エクセレント・バード」を披露している。

サカエはピテカンに行かなかったけれど

以前の記事で、80年代の東京に憧れて上京する少女サカエを描いた岡崎京子の漫画『東京ガールズブラボー』(1990年〜1992年連載)を紹介した。

明確にはされていないが、ピテカン(1982年12月〜1984年7月)があり、東京ディズニーランドができる前(1983年4月)だから、おそらく舞台は1982年末〜1983年前半ごろだろう(実際は1983年4月以降開業の店が作中に出てくるなど、厳密な時代考証はないが、イメージはこの辺りだと思う)。ということはサカエがやってきたのは、坂本龍一がすでに(84年の「5年前」からだから)最先端だと気づき、でも栗本慎一郎はまだ気づいていない、そんな東京だった。

サカエはラストで故郷へ帰るが、そのあとも東京では森田芳光『家族ゲーム』(83年6月)、浅田彰『構造と力』(9月)が発表され、YMOが散開(10月発表、12月散開コンサート)しても翌年には宮崎駿が『風の谷のナウシカ』を作る(84年3月)快進撃で、栗本慎一郎にももうわかった。世界の基本的最先端は「東京」にある(84年1月号)。

オウム真理教がひっそりと前身のオウムの会をスタートさせてはいたものの(2月)、最先端の夜が最先端のピテカンで行われ(6月)、川久保玲はパリでメンズコレクションを発表し(8月)、ソニーが世界初のポータブルCDプレーヤーを作る(11月)。サカエが帰ったあとも東京は、走り続けていた。

SONY D-50。SONY公式サイト「商品のあゆみ」より

翌年1985年、『天才たけしの元気が出るテレビ』と『夕やけニャンニャン』が始まって(4月)松田聖子が結婚した(6月)。『ビックリハウス』も休刊になる(11月号)。サカエは、「何となく「どんどん終ってくな」」と感じる。

1986年になるとチェルノブイリで事故が起きるが(4月)、日本ではDCブランドブームが加熱し、その行列が『フライデー』のような週刊誌にも報じられるほどになる(7月)。サカエは美大に入ってこの年ついに「トーキョー」に来たものの、原発事故よりカルチャーより、

「どうしたら上手くたてロールが出来るか?」とかの方が大問題ではあったのだった

『東京ガールズブラボー 下』岡崎京子(宝島社)1993年 168ページ

翌年1987年、地価は止まらずにひたすら上昇を続け、バブル景気が本格化していく。オウムがついにオウム真理教を名乗り始める(6月)。石原裕次郎が(7月)熊谷登喜夫が(10月)、亡くなる——。

『かい人21面相の時代・山口百恵の経験1976-1988』(シリーズ20世紀の記憶)(毎日新聞社)2000年 267ページ

サカエは90年代に入って、80年代を振り返る。それが『東京ガールズブラボー』という作品にもなっている。けれど彼女が振り返るのは1986年までなのだ。1986年の「たてロール」の思い出を最後に、彼女の回想は「そしてそれから」の一行で「今」の90年代に接続してしまう。それはつまり、90年代に挙がった「みんな」からの「80年代は何も無かった」という声への反論として彼女が思い出そうとする時代もやっぱり、1986年までの、あの「時代」だということではないか。

果しなき最先端の果に

1984年、東京は世界の基本的最先端だった。6月18日はその記念日だ。2022年の今、東京が世界の基本的最先端だなんて思っている人はいないだろう。あの6月からも東京はずっと走っていたのに。

もしかしたら、見落としていたのかもしれない。たしかに「たてロール」は大問題だった。でもどうも他にも「大問題」はあったのだろう。そこで見落としてしまったものだって、今につながるものだったのだ。サカエが90年代に入って振り返ったあのとき、「みんな」は一緒に振り返ってくれていたのだろうか。

東京が世界の基本的最先端に辿りつくと「5年前」分かった坂本龍一は、1990年4月、音楽の拠点をニューヨークに移している。5年後1995年3月、オウム真理教は東京地下鉄にサリンを撒く。