ツバキハウス経由ロンドン行

2022年4月1日

小さなコンテスト

(引用者注:9月)27 月
★ツバキハウス・ファッション&ヘアーコンテスト
総合優勝者はロンドン旅行。PM9〜 新宿・ツバキハウス

『angle』(主婦と生活社)1982年10月号 141ページ

この新宿で行われた小さなコンテストは、ルイ・ヴィトンやバレンシアガといったハイブランドも含める世界のファッション文化にとっても、重要な一夜だったのかもしれない。なぜならそこで優勝したのが、藤原ヒロシだったから。

新宿・ツバキハウス

ツバキハウスは1976年、新宿テアトルビル5階に開店する。オールナイトで飲食ができ、フリーフード・フリードリンク。常連には、コシノ・ジュンコ、三宅一生、高田賢三といったデザイナーにアパレルのプレス、モデル、美容師などファッション関係の人々、さらには芸能関係者も多かった。新宿という立地も文化服装学院をはじめとする被服に関心の高い学生を呼び寄せ、開業当初からツバキハウスには「ファッショナブル」なイメージが抱かれていたという。

このイメージはそのままに、しかし「愛のコリーダ」がリクエストされるディスコからバウハウスなどニューウェーブの曲がリクエストされる、DJイベントを中心とした今でいう「クラブ」に近いものへとツバキハウスは変わっていく。そのきっかけとなったのが「ロンドンナイト」だった。

『東京ガールズブラボー 上』岡崎京子(宝島社)1993年 50ページ

憧れのロンドンナイト

音楽評論家として活動をはじめ、NHKラジオ「若いこだま」のDJとしても知られていた大貫憲章はこう振り返っている。

一番最初に始めたのは今は亡き霞町のトミーズ・ハウスという店。ポパイ(引用者注:2001年のインタビューでは『アンアン』になっている)の奴に紹介されて’81年の1月から毎週水曜日にやってた。丁度ニュー・ロマンティックが流行り始めた頃で、アダム・アントが人気あったな。パンク以降のロンドン・ブームの先駆けみたいな時代で、ナイト・クラビングっていう言葉が使われ始めたのもこの頃。カフェ・バーなんかもまだ数多く無かったし、カフェ・バーなんていう名称自体まだ無かったんじゃないのかな。そんな時に毎週水曜の夜、過激に選曲しまくったわけだから、今考えると時代のニーズにもぴったりあってたと言えるね。元(引用者注:東京)ブラボーの(引用者注:高木)カンなんかともそこで知り合った。で、そのトミーズにその頃玉椿やりながら新宿ツバキの面倒もみてた佐藤さんが来て、ぜひウチでもやってくれっていうんで、その年、’81年の6月から〈ツバキハウス〉でもお皿を廻し始めたんだよね。

『大貫憲章のROCK快楽主義』大貫憲章(シンコー・ミュージック)1985年 86ページ

『宝島』(JICC出版局)1982年12月号 89ページ

店舗専属のDJでなく、フリーのゲストDJとして登場するこの方式は新しかった。最初はあまりお客さんが入らなかったようだが、ジェネラルマネージャーだった「佐藤さん」(佐藤俊博)の努力もあり「1年ぐらい」経つと文化服装学院の生徒を中心に、ツバキハウスの代名詞となるほど「ロンドンナイト」は人気になっていく。

『宝島』(1982年12月号)の紹介では、

巷の噂じゃ、「ガキのツバキ」とも言われているけど、毎週火曜日のロンドン・ナイトは大盛況。DJの大貫憲章さんがビンビンのモダーン・ビートをかけまくっている。時にマンネリ、軽薄に過激にと、多面性を見せてくれる大貫さんが教えてくれた人気ミュージシャンは、ヘイジー・ファテージ、ブルーロンド・ア・ラ・ターク、ABC、デッド・ケネディズ、セックス・ピストルズ、クラッシュ、ヤズー。日本モノではザ・モッズ! という具合に、他の店とはひと味もふた味も違う選曲が光り輝いているワケ。もちろん、吐き気のするようなチーク・タイムなんかは一切ない。

『宝島』同号 88、89ページ

というわけである。日曜日はヘヴィ・メタル・ナイトが人気を集めたり、金曜日にファッション関係者が集まったりと曜日によって特徴はあったものの、やはり大貫憲章選曲の火曜日「ロンドンナイト」が支持されることによって、ファッショナブルな空気を保ちながらも、ツバキハウスは80年代前半のニューウェーブ・カルチャーと親和性の高い空間に変わっていったことが窺える。

若者の中で

あの頃はお客さんが競ってオシャレをしてたね、今よりも全然。

『丘の上のパンク』藤原ヒロシ監修・川勝正幸編著(小学館)2009年 42ページ

と藤原ヒロシも後に語り、上記の『宝島』1982年12月号を見ても、ツバキハウス以外のディスコやクラブも含め今以上にみんな「オシャレ」し、気合を入れて出かけていた雰囲気が感じられるが、それは岡崎京子の漫画『東京ガールズブラボー』にも見ることができる。

『東京ガールズブラボー 上』 50ページ

「きょうきてくカッコのデザインが」!

『東京ガールズブラボー』に描かれたツバキハウス店内

ヘンなかっこしたヘンな人々
奇妙なかっこした奇妙な人々
カッコつけてるカッコイイ人々

みんな好きよ 上っつらだけの
あんぽんたんな人達

『東京ガールズブラボー 上』 58ページ

藤原ヒロシも上京前には出身地である三重から向かい、『東京ガールズブラボー』でもサカエが札幌にいたころ「飛行機」(!)で通ってたみちゃこちゃんが出てくる。いわば少年少女たちがせいいっぱいにキメて全国から乗り込むファッションショーのような空気もそこにはあったのかもしれない。ならば、あのファッションコンテストが行われたのも納得できるのである。

出来レースだったとしても……

ツバキハウスで撮られた藤原ヒロシらの写真。『丘の上のパンク』口絵vii

こうして最初に紹介したツバキハウス・ファッション&ヘアーコンテストに話は繋がる。しかし『アングル』読者は知らなかったけれど、このコンテストは出来レースだった。

大川ひとみ 審査員には誰がいたっけなあ。大貫さんと、ヘアメイクの野村真一さんと、ほとんど知ってる人たちです。ヒロシくんは踊りはできなかったんだけど、そういうの抜きでかっこいいと思ったんですよ。踊りの上手い子はいっぱいいたから、逆にかっこいいと思わなかったの。そうだ。そのコンテストのために、ヒロシくん用のヘンなジャケットも作ったんだ。誰をロンドンへ行かすべきか? ヒロシくんが行くべきだと私は思ったから、みんなに「この人ね」とか言って(笑)。そうしたら、みんな「ハイハイ」って(笑)。

『丘の上のパンク』 45ページ

大貫憲章 大川ひとみさんが審査委員長で、僕も審査員の末端にいました。ひとみさんが「あの子(ヒロシ)でいい?」って言うから、そのとき、藤井悟もいたんだけど、「ヒロシでもいいんじゃないの」って答えたら、本当に彼が優勝した。そしたら、すぐにロンドンに行っちゃったんですよ。普通、なかなか行かないもんでしょ。

『丘の上のパンク』 45ページ

コンテストの他の参加者には申し訳ない気もするが、しかし当時の(当時から)藤原ヒロシはオシャレだった。だからこそ大川ひとみも藤原ヒロシに興味を持ち、彼と知り合ったのである。

HF(引用者注:藤原ヒロシ) 〈ツバキハウス〉へは、高校の頃から休みを利用して、遊びに行ってた。東京にちゃんと住み始めて、最初に行った〈ツバキハウス〉で、(MILKのデザイナーの大川)ひとみちゃんに出逢った。その頃、〈ロンドンナイト〉へ来るような子たちはみんなロカビリーっぽいかパンクっぽい格好だったから、僕のように〈ワールズエンド〉(のPIRATE)を着ていた子は珍しくて。それで、「面白い子がいるよ」って、ひとみちゃんに紹介されたんです。

『丘の上のパンク』 34ページ

パイレーツスタイルのワールズ・エンド。『WHAT’S NEXT? TOKYO CULTURE STORY』
(マガジンハウス)2016年 48ページ

大川ひとみ (略)あの頃、文化服装学院の悪ガキ・チームとよく遊んでて、〈ツバキハウス〉へ行ったときに、その中の女の子が「ひとみちゃん、すご〜くかっこよくて、面白い子がいるよ」って紹介されて。それがヒロシくんで、PIRATEの格好をしていた。でも、全然しゃべらなかったから、それが逆に印象に残って。今は、よくしゃべるけどね(笑)。パッと見て、「この人は、なんか持ってるな」と思ったの。洋服とか、趣味の部分もすごく合ったから、毎日のように遊んでいました。1週間、ほとんどクラブへ通ってたかな。〈ツバキハウス〉は、ごはんがタダだったしね(笑)。

『丘の上のパンク』 34ページ

そう思えば出来レースは出来レースでも、審査結果自体は道理にかなっていたのかもしれない。なにより、藤原ヒロシは「ロンドン旅行」を無駄にしなかった。

この彼にとって初めての海外旅行で彼はヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンに出会い、親しくなる。そしてマルコムとの出会いはニューヨークでヒップホップカルチャーを体験するきっかけにもなる。これらの経験のすべてが彼のモノ作りの背景になったことは間違いない。そうして出来上がった「藤原ヒロシ」がなければ、「ストリートスタイル」「コラボレーション」も、今のファッションのあり方そのものがちがうものになっていただろう。

ヴィヴィアンと藤原ヒロシ。『丘の上のパンク』口絵iii

1982年9月27日、ツバキハウスで彼が優勝したこと、そしてロンドン行きの切符を得たこと——それはファッションの歴史という大きな流れを振り返るとき、隠れたひとつの追い風だったのかもしれない。もちろん、集まってくる少年少女たちは誰一人気づいていなかった。そして次の日9月28日は火曜日だったから、きっと「ロンナイのひ」を普段どおりに踊りまくっていた。