ステキな人はどこにいるの?——佐藤チカと戸川純

2022年5月1日

ステキな人は

『東京ガールズブラボー 上』岡崎京子(宝島社)1993年 15ページ

『東京ガールズブラボー』で札幌から上京した主人公・金田サカエは「ナウナウでプラスチック」な東京に憧れていました。が、現実は厳しい。歩いている人みんなキメキメではないし、クラスメイトも金八先生の会話で盛り上がっていて全然「ステキ」じゃないのです。

もうしばらくすると、趣味の合うステキな二人と出会うのですが、とりあえず今回はこの「ステキな人」「チカちゃんや戸川さん」について見ていきましょう。

チカちゃんとは

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佐藤チカこと佐藤千賀子さんです。1954年長野県生まれ。22歳からスタイリストとして活動し、ブティック「シェトワ」の店長を務めた後、テクノポップ・バンド「プラスチックス」メンバーとして中西俊夫らとともに活躍しました。

バンド解散後はニューウェーブ・バンド「MELON」のボーカルを務め、ファッションブランドも立ち上げています。MELON活動停止後は再びスタイリストの世界に戻り、その後ロンドンに移住して現在はファッションや音楽の業界からは離れているとのこと。

プラスチックス

『装苑』(文化出版局)1977年3月号 156ページ

プラスチックス結成当時の中西俊夫によるイラストです。これを見ても分かるように、プラスチックスは当初「ノン・ミュージシャン」による、ロックのカバーなどを行う友達同士のバンドに過ぎなかったのですが、後に「ナカニシ」「CHICA」「タチバナ」の3人以外が抜け、新たにプログレッシブロックバンド「四人囃子」の元メンバー・佐久間正英と作詞家の島武実が加入したことで、本格的な活動を始めます。

もっとも、佐久間は四人囃子時代に弾いていたベースではなくあえてキーボードを弾いたり、島もドラムではなくリズムボックスの操作を行うなど、「ノン・ミュージシャン」らしさは維持されていました。

その後、セックス・ピストルズをはじめとしたパンク、ニューウェイブの流れに大きく影響を受け、プラスチックスはイギリスのインディーズレーベルからシングルを発表、同国のアイランドレコードと契約してヨーロッパやアメリカでツアーを行ない、B-52’sやトーキングヘッズと共演するなど国際的に活躍します。

当時のチカさん。『宝島』(JICC出版局)1991年3月24日号 26ページ 特集「ニューウェーブの逆襲」から。

MELONとスタイリスト

1981年プラスチックス解散後、中西と佐藤は「MELON」を結成し、当初はファンク、後にヒップホップの影響を受けた音楽活動を展開しました。このMELONは伝説のクラブ「ピテカントロプス・エレクトス」専属バンドとして活動していたこともあります。

ピテカンについてはこちらの記事をどうぞ。

世界の基本的最先端は「東京」に——ピテカントロプスの夜

基本的最先端 『宝島』(1984年1月号)に「Y、M、O VS 栗本慎一郎」と題…
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こちらは当時のチカさんです。
『an•an』(平凡出版)1983年9月16日号 45ページ

肩書きは「シンガーソング・スタイリスト」。

「(略)プラスチックスやってたときはとにかくたいへんだった。ワールドツアーなんか移動のバスがホテルがわり。それで50都市もまわるんだからほんとつかれるよ。外国じゃめちゃんこウケたんだけど、日本じゃまるっきり。考えてみると、日本の海って海岸には松林でしょ。プラスチックスのピコピコサウンドより、『与作』の方がピッタリきちゃうんだよね」

『an•an』(平凡出版)1983年9月16日号 45ページ

同インタビューではアルバムの「プロモーション手法」として「グループと同名のブランドで服を作」る方法を紹介されています。実際に「メロン・プライベート・コレクション」という名前のブランドを立ち上げ、ステージ衣装など一点ものを中心にピテカンなどでまれに販売も行っていたようです。

「メロン」の服。『玉椿』(資生堂)1983年5月号 7ページ
「ショコラータの断片(2) 〜かの香織、ピテカンとバンドについて語る」より引用
同時期の「ファッショナブル・ワーズ100」。『ニュー・スタイル・パック PiNHEAD』(CBSソニー出版) 1983年 37ページ

こちらはヴィヴィアンの服を着てインタビューに応じるチカさん。

『ELLE JAPON』(マガジンハウス)1985年9月5日号 74ページ

とてもステキです。

スタイリストとしては、野宮真貴さんの出演した明治フーセンガムHOOのCMや、キヤノンのオートマンのCM(1983年発売のT50)も手掛け、特にキヤノンのCMは自身も出演されたそうなのですが、映像は見つかりませんでした……。見つけたらまた追記します。(22/10/23追記:コメント欄で情報をいただき、新しくアップロードされていたキヤノンのCMの動画を確認することができました)(23/7/29追記:動画が消えていました……泣)

https://youtu.be/5DJEimWxg-o

戸川さんとは

『宝島』(JICC出版局)1984年10月号 10ページ

さて、続いて戸川純さんです。1961年東京都生まれ、TBS水曜劇場『しあわせ戦争』への出演など女優として活動しながら、上野耕路、太田螢一とのユニット「ゲルニカ」で1982年レコードデビュー。同年9月には「おしりだって、洗ってほしい。」で有名なTOTOのCMに出演しお茶の間でも知られます。その後『笑っていいとも!』のようなバラエティ番組や『家族ゲーム』などの映画にも出演し、音楽ではソロやバンド「ヤプーズ」で作品を発表しました。現在も音楽活動を続けるほか、YouTubeで人生相談も行われています。

ゲルニカ

『改造への躍動』ゲルニカ(1982年6月)2016年版CD裏ジャケット

こちらはゲルニカ時代の戸川さんと上野さんです。ゲルニカはドイツやロシア、李香蘭など戦前のアナクロなモチーフを現代音楽的な発想と組み合わせて表現したユニットで、戸川さんもこうしたモチーフが好きではあったものの、当時はメンバーの上野さんや太田さんのコンセプトを「演じる」要素が強かったように思えます。

ゲルニカでの服装はコンセプトを反映し、時代がかった格好やドレスが多めです。

『rock magazine』(ロック・マガジン社)1983年2月号 22ページ

カラス族

『週刊セブンティーン』(集英社)1983年6月21日号 54ページ

一方で、このころの戸川さんは、普段着としては「カラス族」的なものが多かったようです。インタビューでも「昔はカラスだった」(『週刊Heibon』(マガジンハウス)1984年12月7日号 175ページ)と答えています。

『週刊平凡』(平凡出版)1982年12月30日・1983年1月6日合併特大号 18ページ

「カラス族」についてはこちらの記事をどうぞ。

ふたり・は・カラス族・です・か

こんな私に彼ができるかなあ  皆さん、私、いま、とても悲しいのです。相談にのって…
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おしりだって、洗ってほしい。

そんな戸川さんが「おしりだって、洗ってほしい。」で変わります。

それまで私、コムデギャルソン着て、黒系のアイシャドウとか、赤黒いボルドーっぽい口紅塗って、ダークな感じで。髪の毛も伸ばしっぱなしで。色が白かったから、そういうの似合うと思ってたんです。メリハリがあって。(略)それがあの、TOTOのCMに、そんなのがなぜか呼ばれて。

「戸川純の人生相談 第12回」から書き起こし

メイクさんやスタイリストさんから、明るいピンクの口紅に真っ青なアイシャドウ、「縁日」風ワンピースにおむつみたいなドロワーズ(これはTOTOのCMだったのもありますが)でスタイリングされ、最初は「似合わない」と大ショック。しかしモニターで自分を見ると照明との関係もあり、色も落ち着いて見えます。メイクさんの計算に感心した戸川さんは、それから自分でも明るいチークや口紅、カラフルなアイシャドウも取り入れるように「開眼」したのでした。

服装も変わっていきます。

ピンクハウスのワンピース。『週刊Heibon』(平凡出版)1983年9月29日号 53ページ

余談ですが、CMの「手が汚れたら洗いますよね」という台詞、最初「手が汚れたら、洗うよね!」と明るく喋るものだったそうです。それを「君だったらどう思う」と問われて、戸川さんが答えたところから今の台詞が生まれたとのこと。詳しくはこちらの動画、25分ごろで。

ステージ衣装

『裏玉姫』戸川純とヤプーズ(1984年4月)2016年版CDブックレット

1983年11月23日、渋谷パルコ・パート3の「スペース・パート3」で行われた「モダーン・コレクション・パート4」への出演や、『裏玉姫』に収録された1984年2月19日のラフォーレミュージアム原宿でのソロコンサートでは、パンクからトンボの羽を背負った「玉姫様」スタイル、さらにはランドセルを背負ったペコちゃん風小学生スタイルまで「七変化」の格好で会場を湧かせました。

『宝島』(JICC出版局)1984年2月号 125ページ

ちなみにこのランドセルは戸川さん自身が買ってきています。

「(略)当時は、衣装代などの予算が出ず、小学生の恰好のランドセルなども自分で伊勢丹に買いに行きました」

『昭和45年女 born in 1970』(クレタパブリッシング)2022年1月号(Vol.4) 26ページ

こうした衣装にはどんな意味があったかというと……

私は演技って言うものは、例えば自分が『蘇州夜曲』が好きであったりと言う部分を自分で客観的に見て大げさに出して行く。例えばTOTOのテレビ・コマーシャルをやる時だったら、自分のある面(笑いながら)幼児性を出して行く。そういう自分を客観的に見てシチュエーションを出して行くという事で、演技というのは自分であり、又自分を客観的に見ての演技であるっていう、半々なんです。

『rock magazine』1983年2月号 24ページ

これは1982年12月に行われたインタビューですが、この「演技」は戸川さんの歌から俳優までの活動に一貫して表現されている、と感じます。

『PiNHEAD』 58ページ

1983年のインタビューでは、「自分の趣味っぽいものはどうしても入れた」いと語りながら、一方で自分のテーマのひとつとして「素材に徹する」を挙げておられます。こうした、自分自身を表すことと、「素材」として客観的に自分を見、見せていくことと。パンクもロリータも「ネクラ」なカラス族も、一方では戸川さんで、一方では戸川さんの演じる世界なのです。

おわりに

『東京ガールズブラボー』のサカエは間違いなく『宝島』を読んでいたと思うのですが、そんな80年代『宝島』には戸川さんの連載「戸川純の人生相談」をはじめ、各種ライブレポート、チカさんとスタイリスト原由美子さんとの対談(84年3月号)など、たくさん二人の記事が出てきます。

「チカちゃんや戸川さん」はニューウェーブ少女にとってまさに「ステキな人」だったのです。

『宝島』(JICC出版局)1984年3月号 5ページ

最後は戸川さんがモデル、チカさんがスタイリスト、洋服はメロン・プライベート・コレクション(タオル地のドレスとタキシード!)、という、今回の集大成のような写真です。ちなみに男性は糸井重里さん。80年代は今思えばいろいろ「ああしておけば良かったのに」ということもあるのですが、でもやっぱり「ナウナウ」で、ステキな時代に思えます。

『宝島』(JICC出版局)1984年3月号 表紙