服を着るのはいったい誰?——川久保玲

2021年2月8日

『装苑』(文化出版局)1978年2月号 24、25ページ 川久保玲作品

シンプルからアバンギャルドへ

コム・デ・ギャルソンのデザイナー、川久保玲の作る服は大きく変わってきた。以前の記事で、1979年の『アンアン』読者から「シンプル」で「素朴」な「流行の先端をいかず、かといって遅れてもいない」ブランドとしてコム・デ・ギャルソンが人気を得ていたことを紹介したが、その後パリ・コレクションへのデビュー、”黒の衝撃”を経て、現在ではコム・デ・ギャルソンはファッション界を代表するアバンギャルドで独創的なブランドとして認知されている。

実際に、1980年代のコム・デ・ギャルソンの服を見ると、すでにそれは「シンプル」とは言いがたい。

『pen+ コムデギャルソンのすべて』(阪急コミュニケーションズ)2012年 25ページ

『pen+』24ページ

なかでも1982年に発表され、その後も続いたぼろぼろで黒い服のコレクション——「ボロルック」は、言わば70年代の「素朴」なコム・デ・ギャルソンを、革新的で実験的な現在のコム・デ・ギャルソンに変貌させていくきっかけとなったと言える。

この大きな変化のとき、川久保はなにを考えていたのだろう。

ビジネスの拡大

『VOGUE NIPPON』(日経コンデナスト)2001年9月号のサラ・モワーによるインタビューで、川久保は1981年パリ・コレクションへの進出についてこう語っている。

「それは、ビジネス上の決断でした」とカワクボは話す。「その前の8年間で、東京でのコム デ ギャルソンの骨組みは確立していたんです。でも、もっと発表の場を広げビジネスを拡大するためには、パリに行く必要がありました」

『VOGUE NIPPON』同号 156ページ

そう、コム・デ・ギャルソンのパリ進出は「ビジネス上の決断」だったのだ。そこに”アート”や”夢”のような曖昧な言葉はなく、ビジネスの拡大というリアルな言葉が使われる。そして「当初、注目を集めるのは大変だったのだろうか?」というインタビュアーの問いかけに対して川久保は答える。

「どうやればいいのか、そのやり方が全然わからなかったという意味では、大変でしたね」

『VOGUE NIPPON』同号 157ページ

このはっきりとした回答を見ると、当時のカラフルでセンシュアルなファッションに対して、川久保が打ち出したボロボロで中性的な穴のあいた服たち——言わば黒の衝撃も——戦略として選ばれたものではなかったか、と思えてくる。

実際、川久保は1981年秋冬シーズンの小さな展示会をきっかけに、翌年春夏、秋冬とコレクションを発表していくが「『川久保玲・初期コレクションの「衝撃」に関する検証』のまとめ」によれば、「ボロルック」の象徴とも言える穴のあいた黒い衣服の登場は1982年秋冬のコレクションを待つ。それまでにもアシンメトリーの意匠などは用いられていたものの、アバンギャルドなイメージとは遠いものがあった。

『川久保玲・初期コレクションの「衝撃」に関する検証』のまとめ - Dress: morio_deguchi

1980年代初頭、コムデギャルソンのデザイナー川久保玲はその前代未聞のコレクショ…
zhuangfu.hatenadiary.org

あの”黒の衝撃”はビジネスで注目を集めるための「やり方」だったのだろうか。

数年前、1977年のコム・デ・ギャルソンは『装苑』の企画で「ロマンティックカラー」さえ提案している——。

『装苑』(文化出版局)1977年6月号 6ページ

ただ、ビジネス上の戦略イコール芸術的でない、と決めつけるのは早計かもしれない。「自分のやりたいこと」をかたちにするため自身が作ったものに最後まで責任を持つ、そのためにビジネスにも関わっていく。川久保は一貫してそう考えてきたからだ。彼女に言わせれば「クリエイションとビジネスは別のものではなく、同じひとつのもの」(『pen+』36ぺージ)として存在する。

そしてこの一貫性に、コム・デ・ギャルソンの変化に迫る鍵もあるように思う。

着ることについて川久保玲の考えていたこと

1983年1月30日、「ボロルック」のコレクションを発表していたころ、ニューヨークタイムズマガジンのバーナディン・モリスはこう書いていた。

私は、夫の意見に左右されることのない、独立したしっかりした女性のために服を作っている、そう川久保は言った。

『pen+』 25ページから孫引き

これを読んだとき、1977年、川久保がまだ日本で「素朴」な服を作っていたときの発言を思い出した。

当時の川久保。『装苑』(文化出版局)1976年6月号 141ページ

1977年1月号の『装苑』(文化出版局)に「ファッションライフの設計1 あなたのおしゃれを考える」という特集がある。そのなかで「今、着ることについて私はこう思う」と題し、ファッション関係者が自説を語るなか、川久保もこの問いに答えていた。

服を着るのはいったい誰? 川久保玲(デザイナー/コム・デ・ギャルソン)

私にとって服っていうのは、自分に密着してますね。子どものころからそうだったけど、とことん気に入った服だけを毎日着る。制服も好きだった、あのちょっと抑えられた部分が。だから、好みがころころ変わる人って、信用できない気がするのです。それと、自分で服が選べない人、彼の意見にふり回される人はいやですね。ただ漠然と生きているのではなく、自分の一生にめりはりをつけることのできる人ならば、きっと自分なりの着こなしができると思います。せめて着ることくらい、自分を通していいんじゃないかしら。

『装苑』同号 86ページ

表現の仕方はちがっても、この1977年の答えと先の1983年の声では、ほとんど同じ内容が語られている。

「彼」や「夫」に左右されない、「独立した」「自分の一生にめりはりをつけることのできる人」——。完成形としての服は70年代と80年代でまったく異なっていても、川久保のイメージする「服を着る人」の姿は深く似通う。

『装苑』(文化出版局)1975年11月号 101ページ 川久保玲作品

このことを考えるとき、やはり100パーセントの”戦略”として「ボロルック」が選ばれたとは思いがたい。その側面があったにせよ、70年代と80年代という時代のちがいに応じたそれぞれの「しっかりとした」女性のために、川久保は服を作っていたのではないか。ときには素朴に。ときにはアバンギャルドに。

2009年12月21日に配信されたasahi.comのインタビューで、川久保は最後にこう語っている。

私のしていることはずっと同じです。周りが少しずつ変わって、その時々の社会やムーブメントに合わせて語られてきただけ。たとえば、私は80年代からライダースジャケットを着ていましたし、いつも同じスタイル。私自身の在りようや気持ちの中は何も変わっていないし、これからも変えるつもりはありません。

『いい物は高いという価値観も… 川久保玲』asahi.com

www.asahi.com

反骨精神について地上波で語った2020年の川久保玲にも、いまのコム・デ・ギャルソンにも通じる言葉だろう。

「コム デ ギャルソン」川久保玲 単独インタビュー 揺るぎなき“反骨精神”|「NEWS23」スタッフノート

 「こういう時だからこそ、  何か新しいことに向かって進まなければ」 …
note.com

漠然と生きるのではなく、自分の一生にめりはりをつけて生きること。そんな生き方をする人に向けて姿を変えながら、変わらずにコム・デ・ギャルソンは送られ続けている。