生前服

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ギンザの服の物語

はじめに

 2022年1月、仲條正義『僕とデザイン』(アルテス・パブリッシング)という本が出版された。

僕とデザイン

僕とデザイン

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 資生堂の企業文化誌『花椿』のADをはじめ、さまざまなデザインで知られる氏が自身の歴史、またデザインを行うときに心がけることや具体的な方法についてインタビュー形式で語った本で、とても面白い。
 そんな仲條正義の代表作として、資生堂「ザ・ギンザ」のロゴマークが挙げられている。

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「ザ・ギンザ」公式ツイッターより

 で、この「ザ・ギンザ」、田舎者の私にはロゴを見た記憶はあったものの、なんなのか分からなかった。ザ・ギンザて何? だったのです。文中で「資生堂が商業施設のザ・ギンザを立ち上げ」とはあったけれど、デパートみたいなものだろうか?

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うーむ?

ギンザの正体

 調べてみると、資生堂の子会社、資生堂化粧品店が1975年3月1日(土)、銀座7丁目に作ったファッションビルが「ザ・ギンザ」だった。

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『国際商業』(国際商業研究所)1975年5月号 76ページ

 化粧品のトップメーカー資生堂の「ファッションビジネスへの本格的進出か」と注目されたものだが、
 「当社はもともと、資生堂薬局として、明治5年、この銀座7丁目でスタートしたのがはじまり。つまり、小売業が出発点であった」(山田勝巳資生堂化粧品店営業担当取締役)
 その後、化粧品部門が拡大発展し、資生堂=化粧品のイメージが消費者に固定してしまったわけだが、ファッション戦略の多角化・強化を図るべき社会状況の変化(消費の多様化・個性化や再販問題)が「資生堂ザ・ギンザ」誕生の背景となった。

『商業界』(商業界)1975年6月別冊 99ページ

 こうして「ザ・ギンザ」が生まれた。

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こんなものもあったらしい。『国際商業』同号 77ページ

 その後1985年には、資生堂化粧品店という社名も「ザ・ギンザ」に変わる。ただし2009年、ブティック事業からは撤退し、ファッションビル「ザ・ギンザ」も「ザ・ギンザビル」老朽化に伴って建て替えられ、現在は「SHISEIDO THE STORE」が同じ場所に位置している。「THE STORE」は同名の化粧品ブランド「ザ・ギンザ」の販売を中心に、さまざまな美容提案を行う場となっているようだ。

ギンザの服の物語

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ザ・ギンザビル。『国際商業』同号 79ページ

 と、いうわけで、現在ザ・ギンザは直接には服と関わらない場所になっているが、開業当初はもちろん服も並んでいた。当時の雑誌2誌から見ていきたい。

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『国際商業』同号 81ページ

 まず、基本的な構造はこうだ。地下1階の喫茶店「ピクニック」、5階の「ザ・ギンザホール」(キルティングなどの展示のほか、ファッションショー、美術展などさまざまな催事が行われた)、6階の事務所、7、8階の「資生堂美容室」を除き、1階、中2階も入れて4階までの5フロアがファッションコーナーとなっている。結構な規模である。では次にその1階から4階までを見てみよう。

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『商業界』同号 99ページ

 東京都中央区銀座7丁目、仲條正義デザインの「ザ・ギンザ」ロゴマークの下をくぐって1.8メートル下りると1階売場。化粧品やその関連品のほか、ハンドバッグなどが扱われていた。『商業界』同号では「各階で一番活気がある。」と書かれている。 

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『商業界』同号 100ページ

 この「モノ!」という物量感が70年代を感じさせる。

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M2F。『国際商業』同号 80ページ

 続いて中2階。ここにはソニア・リキエルのコーナーがあった。ソニア・リキエルはフランス人デザイナーで、セーターをはじめとしたニット作品で知られる。
 『商業界』同号によると、「八万円のセーターや六万八〇〇〇円のスカートなどが結構売れて」いたらしい。当時の大卒初任給は89000円ほどのようだから、物価の違いもあるだろうけれど、現在の海外プレタポルテとあまり変わらない感じだろうか。いつの時代も、あるところにはお金がある。

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ムムム……

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ザ・ギンザメイド。『商業界』同号 101ページ

 さて、上がって2階はオリジナル商品「ザ・ギンザメイド」が中心だった。「ジャケット、セーター、ブラウス、スカートや婦人靴、バッグなどがあり、”スポーティ”な感覚の商品が多い。」(『商業界』同号)とある。これらオリジナル商品は『国際商業』掲載の資生堂担当者の声によれば、

輸入品が、どうしても高額のものになってしまう。そういった値段への不満

『国際商業』同号 78ページ

から作られたという。「ザ・ギンザ」は1976年にオープンしたビームスなど、セレクトショップの業態のはしりとも言われるが、こういう感覚も似ている。

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左『商業界』同号 102ページ 右『国際商業』同号 80ページ

 そして3階は「”スポーティ”」な2階に比べ「”フェミニン”な商品が中心」(『商業界』同号)で、ヴァレンティノ・ガラヴァーニ(いわゆる「ヴァレンティノ」)などの有名海外ブランドと、オリジナル商品とをコーナーごとに分けて陳列していた。美しく並べられてはいるものの、やはり80年代のブティックと比べると、写真中の机の上など、「モノ」でいっぱいという70年代的物量感がある。

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4階。『メンズクラブ』の雰囲気。『国際商業』同号 81ページ

 最後の4階はヴァレンティノなど輸入物紳士衣料のほか、インテリア、ギフト用品など雑貨・小物類も扱っており、ガラス器、文具、インテリア小物などの人気は高かったという。

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モノ! モノ! モノ! 『商業界』同号 102-103ページ

 以上、開業当初のザ・ギンザを見てきた。あとは喫茶店に寄って銀ブラへ。
 ちなみに、『国際商業』同号によれば「ザ・ギンザ」の位置した銀座7丁目界隈は、当時あまり人気のない場所だったという。

 (略)ここ数年、華やかな一大ショッピングタウン銀座にあって、なぜか7、8丁目界隈だけが閑古鳥が鳴くかのように人影がと絶えている。いわば”過密の中の過疎”地帯になっていて、ひいてはそれが”銀座斜陽論”に拍車をかけている。
 銀座といえば、いまでこそ4丁目附近(引用者注:現在も時計塔で有名な和光、三越等がある)がその中核になっているが、一昔前は7丁目、8丁目がその中心だった。明治43年、国電有楽町駅が開設されて以来銀座への入口が、新橋駅から有楽町駅へ変わり、銀ブラ族の流れもまた変わってしまったのだった。

『国際商業』同号 76ページ

 「ザ・ギンザ」は資生堂のファッション界への新たな挑戦であり、そこには自社のスタート地点である「銀座」という場所への想いも込められていた。それを考えつつ、改めて「ザ・ギンザ」のロゴを見ると、「銀座」という街に対して1975年、資生堂や仲條正義が与えようとしていた新しいイメージのようなものが、どことなく浮かんでくるように思う。

 

おまけ

 「ザ・ギンザ」が1982年秋冬コレクションからスタートさせたオリジナルブランドに、「ザ・ギンザ・ストーリー」がある。
 この「都会的感覚にマッチした、シンプルで着やすいカジュアル・ウェア」を基本姿勢としたブランド、デザイナーはなんと山本耀司だった。

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『Olive』(平凡出版)1983年1月3日・18日号 14ページ

 表面に「うね」をつけたジャージー風ニットを使ったワンピース(右)など、素材にこだわった着心地の良い服、ということで、山本耀司らしさもあり、なかなか魅力的に思える。おそらく、それこそ「ザ・ギンザ」限定だったためあまりファッションの歴史には残っていないブランドだけれど、せっかくなので紹介しておきます。