一つの夢が叶ったら、次の夢、次の夢。寛斎。

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KANSAI IN LONDON

 

 ――1971年5月。ロンドン・キングスロードのセレクトショップ「グレート・ギア・トレーディングカンパニー」は、午後6時まで営業した――

三畳間の下宿で

 1966年深夜。山本寛斎がペンを走らせる。三畳間の下宿で雑誌『装苑』の写真を表紙から裏表紙までひたすら模写していく。手元には長沢節らによる『スタイル画の世界』。昼間はコシノジュンコ、後に細野久のもとでお針子(デザイナーが作った服を縫う縫製担当者)の修行に励み、帰宅してから二三時間続けるこの作業が、彼のデザイン画の独学法だった。

本当にこれでいいんだろうか。こんなことをしていてデザイナーになれるんだろうか。

『熱き心』山本寛斎(PHP研究所)2008年 92ページ

 そんな不安を抱えながら。

 日大文理学部英文科の学生だった寛斎は、ファッションデザイナーになると決めた21歳のとき退学届を出した。当時もデザイナーになるにはファッションの専門学校に通うのが通常のコースだったが、そんなお金はない。そこで選んだのが、お針子の修行というお金を稼ぎながら勉強もできる道だった。頭には『装苑』で見た、国鉄で働きながら1963年に装苑賞を獲った川上繁三郎と、中村乃武夫の美しいデザイン「ペリカン」があった。

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中村乃武夫「ペリカン」『装苑』(文化出版局)1974年7月号(再録) 138ページ

 努力は実り、デザイン画が候補作に選ばれる。が、実際の服づくりがよくわからない。そこで人台(トルソー)にシーティング(シーツなどに使われる生地。安価なので仮縫いに使用される)を巻きつけ、鋏を直接入れながら服のかたちを作っていったという。

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当時の作品(左から2つ目)『装苑』(文化出版局)1967年4月号 170、171ページ

 そして1967年、山本寛斎はついに装苑賞を受賞する。デザイナーになると決意してから2年ほど。すごいスピードだった。一つ、夢がかなった。

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第21回装苑賞受賞。『装苑』(文化出版局)1967年4月号 166ページ

 ――「グレート・ギア・トレーディング・カンパニー」の店内が慌ただしく片付けられていく。棚が隅に寄せられ、白い布がかけられた。ソニーの技術者たちが音響や照明のセッティングを始めた――

ヒッピーとの出会い

 装苑賞受賞後、独自の「山本寛斎スタイル」を作ろうと模索を続けていたとき、寛斎は本屋で立ち読みしていた本にニューヨーク、グリニッチ・ヴィレッジで暮らすヒッピーたちの写真を見つける。

あっ、僕の作る洋服はこれだ!

『装苑』(文化出版局)1969年6月号 175ページ

 1960年代末、ファッションの世界でもヒッピーやフォークロア、サイケデリックに注目が集まっていた。寛斎の服がここに共鳴した。

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寛斎のフォークロアスタイル。『装苑』(文化出版局)1970年11月号 31ページ

 寛斎自身も奇抜な格好に身を包むようになる。アフロヘアに上下蛇革の服と靴がトレードマークだった。

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1970年『LIFE』に掲載された寛斎。『プリンツ21』(プリンツ21)2003年秋号 74ページ

 そして1968年、この格好が彼の人生にも影響を及ぼす。

 ある時、デパートの重役から、「君は面白いかっこうをしているね。今度うちの渋谷店に君の作品を置いてみないか」と声をかけられた。願ってもないチャンスである。さっそく数着の服を作って納入したところ、なんと一週間で完売してしまったのだ。

 『熱き心』108ページ

 このデパートは西武百貨店(渋谷店のコーナー「アバンギャルド・カプセル」)だったが、ここを皮切りに山本寛斎のビジネスは急成長を始める。原宿にアトリエを構え、1970年には年商1億円にまで達していた。この資金力が海外への挑戦に現実味を与えたことは間違いない。

 また夢が、かなった。

「日本人」として

一連の〈カンサイ・ルック〉——アラベスク模様のパンタロン、ツギハギ・ルックのマキシコート、手製の絞り染めのシャツなどが、若者たちの心をガッチリととらえて、はなさない。

 『宣伝会議』(宣伝会議)1970年11月号 12ページ

 ここからも当時の「山本寛斎スタイル」は洋風なヒッピー、フォークロアスタイルだったことがわかる。しかし、寛斎自身は次第に「日本人」というキーワードを意識するようになっていく。アフロヘアも坊主頭に変わった。

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変貌。『宣伝会議』同号 9ページ

 当時の日本のファッション界というのは、まだまだヨーロッパ崇拝主義だった。「カルダン先生、サンローラン先生に比べて、日本のデザイナーはね〜……」などという感じ。
 私は、それに反発を覚えていた。日本人として「どうじゃあ!」と世界の舞台で堂々と勝負したかった。

 『熱き心』205ページ

 そのためにはヨーロッパにはないものを見せるしかない。当時は映画俳優のアラン・ドロンが人気だったが、私はどうやったってアラン・ドロンにはなれない。金髪や茶髪に染めたところで、本物に勝てるわけがないのである。黒髪でなきゃダメなんだ。つまり、日本人であることを強烈に打ち出していかなければ……。

 『熱き心』205、206ページ

  実際には黒髪というか坊主だったのだが(?)、世界に挑戦しようと思ったとき、寛斎は「日本人」へと意識を強めていった。歌舞伎との出会いもこのころだ。

 ショックだった。日本人がこれほどの色彩美を作り得たとは! その大胆でグラフィックな色合わせ、演出の面白さ。そこに脈々と流れる日本人の激しい血は、まさに私自身の血と同じだった。目からウロコとはこのことか。これを武器にロンドンで勝負してやろうと思った。
 すぐに歌舞伎の「引抜き」「打っ返り」の技法を応用して服を見せるというアイディアが浮かんだ。

 『熱き心』206ページ

・「引抜き」(ひきぬき)……衣装に仕掛けた糸を引き抜いて衣装替えをする手法。
・「打っ返り」(ぶっかえり)……止め糸を抜いて上の衣装を腰から下に垂らし一瞬で服の色を変化させる手法。

 

 こうした、歌舞伎のような表現は、アジアらしさを西洋受けに利用したと捉えられてしまうかもしれない。ただあくまで寛斎はこう語っている。

日本風が外国に受けるから採用するんじゃない。ぼくの感覚が、日本的なドロドロしたものにすごく反応するからなんだ

 『週刊ポスト』(小学館)1971年4月30日号 5ページ

 「日本風」の表現だけなら、それは寛斎が憧れた中村乃武夫が日本人として初めてパリでコレクションを行った際にもやったことであり、この記事ではあくまでこの方向を突き詰めて、ロンドンでのショーで衝撃を与えた寛斎のすごさに注目したい。

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中村乃武夫のパリでの作品。『装苑』(文化出版局)1974年7月号 134ページ

 そもそも寛斎は海外進出で初めて「日本風」を推し出したわけではなく、1970年の日本のコレクションでもこうしたデザインを発表している。彼がやろうとしていたのは、ただ「アジアらしさで西洋人に受ける」だけではない、寛斎の思想と当時のカルチャーとが密接に関わる1971年の「新しい」表現だったはずだ。

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『プリンツ21』(プリンツ21)2003年秋号 52ページ

ついにロンドンへ

 1971年、山本寛斎は日米ダブルのモデル、マリー・ヘルビン(偶然ロンドンに来ていた同じくダブルのモデル、杉本エマも急遽ショーには参加)とヘアメイクの川辺サチコ、彼女の片腕である鈴木輝雄、スタイリストの高橋靖子らとロンドンの街に立つ。高橋靖子はモデルのオーディションや会場の選定にも関わっているが、面白いのは彼女がソニーの盛田昭夫と空港で偶然出会ったときのエピソードだ。

 私は迷うことなく紳士に近づいて、「ソニーの盛田さんでいらっしゃいますか?」と話しかけた。
「そうですよ」という答えを聞くと、「私はロンドンで、ソニーの電話番号を調べたんですけど、電話帳にありませんでした」と言った。
「あなたはロンドン市内で調べましたね。ソニーは郊外のサセックスというところにあるんですよ」と教えてくれた。
 それから5分くらい話をして、盛田さんは「じゃ、そのショーの音響に協力するよう、部下に言っておきますよ」と約束してくれた。 

 『表参道のヤッコさん』高橋靖子(アスペクト)2006年 173ページ

 盛田さんはきちんと約束を守ってくださり、ショーの三日前から3人の技術者を送り込んでくれた。技術者たちのギャランティと、会場の音響設備もすべて無償だった。

『表参道のヤッコさん』174ページ 

  海外へ行く日本人が少なかった時代の背景や、高橋靖子の人間的な魅力もあるのだろうけれど、すごい話だ。そして、このときのソニーはもちろん大会社ではあったけれど、前身の東京通信工業株式会社創業から25年の、今でいえば楽天やゾゾタウンと似たような、まだまだ動いている企業だったんだな、とも感じてしまう。しかしすごい。

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ショーの数日前(椎根和撮影)。高橋、寛斎、鈴木。『表参道のヤッコさん』172ページ

 ――「グレート・ギア・トレーディング・カンパニー」の店内。27歳の山本寛斎が待っている。ショーが始まったのは、午後9時ぐらいだっただろうか――

KANSAI IN LONDON

 1971年5月、「KANSAI IN LONDON」が始まった。

 ベン、ベン、ベベベーン……と太棹の三味線の音が会場に鳴り響く。静まり返った観客の目の前に二人のモデルがステージに登場。羽織っていた水色の上着をパッとはねのけると、服が裏返って中から花びらが飛び散るような原色のドレスがあらわれた。次々と服をはぎとっていくと、赤、白、黒と移り変わる色彩の乱舞である。

 『熱き心』206ページ

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『表参道のヤッコさん』178ページ

 大きく重たく、伝統的な「手甲脚絆」(てっこうきゃはん)や歌舞伎の手法を取り入れ、構造も複雑を極めた衣装がロンドンの人々を驚かせた。照明や音楽や興奮のあまり発せられるため息はショーの間続き、山本寛斎は黒子の衣装でステージ中央からときどき檄を飛ばした。ショーはドラマティックに走り過ぎた。

 人びとは立ち上がり、拍手は30分経っても鳴り止まなかった。
 寛斎さんは、手を振り、走り、観客と握手をして、全身で応えていた。

 『表参道のヤッコさん』177ページ

 ショーは奇跡的な大成功を収め、ロンドンでも寛斎の服が売られるようになる。顧客にはエルトン・ジョンや後に衣装で関わることになるデヴィッド・ボウイがいた。これも、寛斎の服が「キッチュな日本趣味」を超えた時代の先端を行く表現だったことの裏付けだろう。

 また大きな夢が、かなった。

 

 三畳間から装苑賞へ。装苑賞からトップ・デザイナーへ。そしてロンドンへ。寛斎は夢を追い続けた。

一つの夢が叶ったら、次の夢、次の夢……。私は一ヵ所にとどまっていられない性格なのだ。

『熱き心』177ページ

 それはロンドン以降も、パリ・コレクションへの挑戦と挫折、「KANSAI SUPER SHOW」での復活、近年の「日本元気プロジェクト」まで続いていく。

 1971年。まだ無名の「日本人」でしかなかった彼がロンドンで行った「日本人」として初めてのファッションショーは、大きな拍手と感激に迎えられていた。

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マリーに仮縫いをする寛斎。『週刊ポスト』(小学館)1971年4月30日号 3ページ